交通事故がきっかけで先生の性的なおもちゃになる覚悟をした私の青春時代
この記事の所要時間: 約 4分35秒
現在は、40代の主婦です。
結婚前の男性経験について告白します。
初体験の相手は、高校の先生でした。
交際を始めたのは卒業後でしたが・・。
地方の公立高校でした。
新設校で、ボランティア活動の同好会を仲のいい同級生と立ち上げ、その顧問の先生が松崎先生でした。
若くて活発な松崎先生は、男女問わずみんなの人気者でした。
同級生は男女3人ずつの仲良しグループ若い松崎先生を含め、いつも一緒に活動していました。
サークルの中でもカップルはありましたが、私は松崎先生にぞっこんでした。
そんな私の思いはサークル内では「公認」を得ていました。
ただ、松崎先生は20代でしたがすでに奥様がいらっしゃったので、私の思いはかなわぬ事が前提でした。
卒業を控えた1月。
久しぶりに参加したサークル活動の帰り道、私は交通事故に遭い長期の入院生活を強いられました。
無事卒業はできたものの、リハビリをしながら浪人生活を強いられました。
サークルの仲間は皆大学進学。地元を離れました。
私は、孤独な入院生活。
そんな私を支えてくれたのも松崎先生でした。
私の入院した総合病院に、奥様が出産のため入院していた時期もあり、頻繁に病室を見舞ってくれました。
退院後歩行トレーニングが必要なのに「障害者」になった自分を受け入れられず、リハビリにも行かず鬱ぎがちな私を励ましてくれたのも松崎先生でした。
先生は頻繁にリハビリに連れ出す名目でドライブにも誘ってくれ、実際多少歩き方に偏りがある歩き方ではあったものの、ずいぶん改善していきました。
それでも、足を引きずりながら人前を歩くことには抵抗感があり、先生に誘われるとき以外は外出することはありませんでした。
足のことがあり、普通の恋愛や結婚すら諦めていた私にとって松崎先生がすべてでした。
わたしは、恋愛や結婚すら諦めている心情を先生に話しました。
先生は泣きながら怒ってくれましたが・・・。
先生に抱いて欲しいと真剣に話す私を遠ざけた時期もありました。
が・・・結局、ある日のドライブ帰りにホテルで私を愛してくれました。
その後もリハビリといっては私を連れ出し、車の中でも抱きました。
カラダ目当てでも一緒にいたかったのです。
妊娠中、夫婦生活がなくなり、奥様が出産後子供にかかりっきりで、「夫婦生活がご無沙汰だ」・・と、
冗談交じりに話していたとおりに、先生の性のはけ口になっていることは感じていました。
私自身も足のことがあり、一生男性とそうした関係はないと覚悟していただけに、先生の「おもちゃ」になる覚悟をしていました。
学校での先生とは違い、まさに男でした。
卒業生という気安さもあったのでしょう。
性行為のときは、あの優しさなどみじんも感じられない男のエゴを押しつけてきました。
車の中では、必ずと言っていいほど口で処理することを求められ、何も知らなかった私に精液は飲むものと教え込みました。
夏休みに東京の大学から帰省したサークルの仲間と、車いすなしでも何とか歩けるようになっていた私は、先生の自宅に遊びに行きました。
思い出話に花が咲き、懐かしがる仲間を尻目に私は複雑な心境でした。
大学時代の後輩という先生の奥様はかわいい感じで、罪悪感にさいなまれました。
別れ話を切り出したこともあったのですが、先生の呼び出しを断ることはできませんでした。
そのころには、先生は私の勉強を見るという口実を作り上げていたので、頻繁に電話で私を誘い出す先生に母親はすっかり恐縮していました。
そんな母を裏切りながら、私は先生に公園の公衆トイレや駐車場に停めた車の中、雑木林で立ったまま、様々な場所で愛されました。
いえ、やはりおもちゃにされていました。
そんな状態で、志望校はことごとく不合格。
唯一、地方の3流短大に合格しましたが、私の下宿に先生は頻繁に来るようになり、自由に抱きました。
そんな状態がいやで、私は友人の紹介でつきあい始めた男性を先生にも恋人として紹介したのですが、先生は別れてくれず・・・。
いいえ、私もどこかで踏ん切りがつかなくて、先生の代わりの「恋人」を探しては別れるという状態を繰り返していました。
いつしか、私は恋多き女を通り越して誰とでも寝る女・ヤリマン女と陰口をたたかれるようになりました。
でも、それは私が足のことを気にしていて、そのことからつい体を・・・と(引きずるような歩き方は治りませんでした)といった哀れみや、同情を伴って噂されていたようです。
確かに、男性との性交渉は男性へのサービスといった奉仕のスタイルで、自らの快感は自慰行為に求めていました。
就職をして私が転居したのと、先生が転勤で遠距離になったことがかさなり自然消滅したのですが・・・
私の方は、やはり誰かいないとだめなのか、職場の上司とすぐに不倫関係に陥りました。
先生はその3年後、交通事故で亡くなり、その葬儀には私もサークルの仲間も参列しました。
それから、私は本当に心優しい男性と出会うことが出来て、幸せになることができたのです。
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